昭和48年5月23日月次祭
物を頼りとする者はこの頼りなさ不安なり。
不安も心配もこれは全て頼りにならない物をと云うところまで
そのたよりなさ物を頼りにする、・・・・・?不安も心配も・・・・・心がいらいらするそれは頼りににならないものを・・・・?いうところまで頂いたらいいと思います
ところがまーだ神がたよりであったり物がたよりであったり、息子が頼りであったり主人がたよりであったり・・・・?が頼りであったりと言う間は・・・・・・・?
本当を言うたら、頼りになるものはない、それは自分のしとておる、自分の腕に、自分の力というても、自分の腕といっても一切頼りになるものではない、ここんところを分からしてもらわないと信心は安定してこない。
何とはなしに漠然と、おぼろげながら、信心をしていることがありがたいと思っている、おかげを頂いてありがたいといっているけれども、・・・・・?ありがたいのでないのであるというなら・・・?口に真を語りつつ心に真のなきこと」心に本当にありがたいと感じてないのに、ありがたいと口で云って・・・?
みきさんの兄さんが亡くなられる前日松栄会にはいってもう熱心で人間が素直で何とも言えん童心、無邪気、それが三十いくつかの若さで亡くなられた。それもアットという間になくなられた、もう本当に清さんを中心としてあの大きな事業をしとられた、お父さんは中国領海で・…?本当の柱であり、両親としては息子が頼りであった、しかもそれが親孝行である、
その前の日の御理解で「どげんよか息子で親孝行でございますと云っても頼りにならん当てにならん、それで要らんというのでない、けれども実際は頼りにならないものを頼りにしておるところにそういう突発的な事になって、ね、家内に逃げられたとか、息子に死なれたとか、あったはずの金がいつの間にか全部なかった、お母さんはあるとばっかり思うておった、そしたら息子が全部盗ってしもうた、しかも印鑑偽造じゃないけれども印鑑を盗むでからぜんぶ取ってしもうた、もうそれこそその人一代二代で食べきったんじゃない使い切ったんじゃない財産が全部空になった。
それがわかった途端に家は潰れることになった、それはそれはそこのお父さんと云ったら使用人が捨てたような下駄を拾ってきてそれを焚き物にするという程しのそれこそ倹約をして一代でなん億という財産を作っておられたんですけどあるとばっかり自分のまだ名義になっておると思うとったのがもう全部空になった。かねも頼りにならんですよ、当てににならない。家の父ちゃんは頑丈にしてるからといっても当てにならん
ですからね私共はね教主様のお歌の中から本当に頼りにならぬ物を頼りにしておるからのその不安この焦燥です、この心配である、とそういう不安焦燥する時にイライラする時に本当に頼りにならん物を頼りにする、神様を本当に杖に突いていないということを先ず知らなければいけん、「金の杖を突けばまがる竹や木は折れる神を杖に突けば楽じゃ」と仰る、
その楽であるはずの神を杖についておると思うておっても、なるはど頼りにならないものをたよりにしておる不安と分かっておっても、神様を杖に突けば楽じゃという処までの神様をいただいていないということが不安の元であり、それが安定した安心の生活をすることが出来ない。
今日私御神前に出さして頂いた途端に天地から家内がそれこそ見事なハンドバックを古代紫のそれは見事な、只その角の方に皮で模様がはいっている、他は全部紫、紫に勝つ色はないと私は思う、紫という色は素晴らしい、これを持っている限りいわば、いつも心は安心だ、ここにちょっぴり模様が入っているぐらいのことは、それは人間ですから完璧ということは有りはしない、不安にならんことはない、不安になることは有りますけれども、けども次の瞬間には神様にお縋りをする、という処からその安心、例えば少し模様があるところでも紫1色になるという位の処までは頂きたい、そのハンドバックをいつも持っておれる位のおかげは頂けよと云うことであると私今日思うたからそのことを皆さんに聞いていただいた。
どうです、皆さんがもっとられるハンドバックはどの程度に紫の、紫は安心の色と仰せられる、それこそ真っ黒なハンドバックばっかり持っているのではないだろうか、心はいつも真っ黒いつも不安である、心配であるということでは信心を頂いている者の値打ちはない。
ところがです、そんなら神様だけに一心に縋っておる、神様を頼りにしている、神様を杖についていると言うても、その神様という方がまた疑えば限りがないという方なんですから、もう始末に困る。
目には見えない姿もない、言葉も形もないのですから、それを信じれという処に信心があるのですから、いうならば難しいと云やあ難しい。
本当に信心を頂いて神徳をいただいた人は、それこそそれは絶対である、神様を頂いている限り神を杖についている限り、誰をたよりにしなくても、何も頼りにすることもない。
金やら物やら人やら、いうならば、うちのひとり息子親孝行な息子これが居ってくれさえすればと思うている息子でも、頼りにならないと分かったら神様をおすがりし、神様がわかりその神様を杖に着かせて頂けれる信心を頂きたいんですけれども、その神様がハイと云うてから杖のような、ないのだから実際は、ね、疑えば限りなしそれこそ、恐るべし恐るべしと云われるけれども、どこを信じたらいいのか。
神は姿もない声もない、それを私どもに信じろと云うても云う方が無理なようにありますけれども、一度私共が信心の心をいよいよ神様に向けてその神様にお縋りをしてその神様の心を心としての生き方ならせて頂くところから心の中に安心が生まれる。
私がまだヤミ商売やっている時分に経済にひっかかって久留米警察に呼ばれて誘導尋問にかかり心穏やかでない、もう何時間も調べたけれども知らぬ存ぜぬというもんですから、向こうもちったあもやもやしてき「お弁当食べてるからその間考えとけ」こっちは焦燥していらいらして、あういう時に、いわば、ひっかかって云うてならんことを云うてしまうかと思うた。
それから警察の人にいうてから自転車で久留米から善導寺の教会までもう一生懸命でお参りさしてもらった、親先生にお取次ぎをいただいたら心があえた、もう、それこそ槍でも鉄砲でも持ってこいというきになった。
また調べられる処で待っとたばってん、いつまでっても来なさらんそして何時の間にか机のうえで寝てしもうた、もうひとしい寝たと思うたら、肩叩いて「コラッこら」と起こされた。調べの人「寝ておりました」
「あんたばっかりは、さっきから来たばってんあんた居らへん、何処へ行っとったか」またゆずり来てなさるが、そうでしょう、久留米から善導寺までお願いに行っとる「実はそれこそ、いままで知らぬ存ぜぬのですから、それをあなたが云えというのですからそれは、濡れ絹をきせられたようなものだ、実際はそんなことないが、それで私はだいたい金光様の信者じゃから、金光様に善導寺にお願いに行っとりました。
「金光さまは久留米に何軒もあるじゃないか」
「あるばってん、私はだいたい三井教会でご用頂いたもんじゃから三井教会までとにか く巡査さんそんなこと分んなさること、疑いが晴れるように私はおねがいに行きまし た、そしたら心が安心ができて、でなかったら、あなたが云いなさることを私がしと ったら警察であなたの目の前でぐうぐう寝られるはずがなかですよ」
もうそれぎりでした。「また調べるかもしれんからその時きてくれんの」と云わしゃったけれどもそれっきり呼び出しはなかった。安心というはこんなにも功徳がある、これは嘘であってもそうだ。
目には見えない姿はないけれども、不安で不安でたまらん時に心がいらいらする時に御ご神前に向かって一心にご祈念さして頂いていると心が安らいでくる、お取次ぎを頂いてのことであるから、神様にこれほど一心にお願いしてからという安心、それが神を口神を杖に着いた時の状態なんです。
先ほども光昭先生が前講でお話をしとられた「思うようになる時には用心しなければならん、思うようにならん時こそ神様の願いが成就している時と思うて一心に信心してゆけ」と仰るが、最近もう神様の、それこそ、光昭先生の言葉を借りるならば「一分一厘間違いがないお働きがあることを、思うようにならない時にそれを感じさせて頂きます」といっています。
東京からおもちゃが送ってきた、そのおもちゃの話をしておったのが、出してしよったところが、そこに電話が掛かって来た。
その娘から孫がもう湯水も通らんという状態だといって電話が掛かって来た、今その娘の孫の話をして居るところにそこに先生日頃の信心がピシャッと神様の今思い出させてくださって、今電話がかかってきたと云うところに一分一厘の間違いのない働きを感じたわけです。
毎日朝参りをさせて頂いて家族中のこと、それから息子娘、縁についている娘たちのことから、孫たちのことから、または主人の兄弟もうよそに行っとられる人達のことから、自分の親のことはもちろん里の親のことまでもお取次ぎを願わせていただくが、よう毎日毎日のこれだけのお初穂が続くことだともう一分一厘まちがいのない働きを、そういう中からの毎朝のご祈念によって、親先生の御理解によってその日一日の心の安らぎを頂いているというところから一分一厘の間違いのない働きをそこに感じることが出来る。
しかもそれは信心しておってどうしてこのようなことがというような、いうなら、願っても願い通りにならん、右と願っても左になるといったような時にその中に神様の一分一厘間違いのない働きを感じるというのですから、目には見えない姿にもないけれども、それを信じれれるという生活こそが私は本当の信心生活ではないかと思うのです。
疑えば限りがない、例えばですよ、ここではあまりにも神様の生きた働きというもの姿思わなければおれないような程しのものを見せて頂いたり聞かせて頂いたりするけれども、それだけではいけない。
まあお腹に宿ったばかりの子供が男でしょうか女でしょうかというてお名前を頂きにくる人がある。・・・・?もう少し作っておけばよかった、そんな馬鹿なことはなか、なるほど神様はそのような働きも見せて下さる、なるほど神様じゃなあということが分かる、けれどもそういうことばっかりではないということ。
今度こげんな株を買いますからどうぞ、どれにしましょうか今度は儲かるぞ、あっという間に倉を建てるでしょう、今度経理にいきますがよろしゅうお願いします。「何番と何番と買え」と言われたら、しかしそういうことがおかげじゃない。そこに例えば生きた神様の片鱗を見ることは出来るにいたしましても、神様の心が分かるということが何故
そういう働きを時折でも見せてくださるかということ。
先日からお互いのさまざまな難儀を突破するということはもう普通の信心では出来ん、まあ普通でありがた、恐れおおき、もったいなき道をというがお酒の信心では出来ん、日本酒では出来ん焼酎ぐらいの度数の強い「ありがたい」をいただかなれればいけないというご理解を頂きましたよね。
今日のお月次祭にいつも洋酒のお供えの処にあれは全部熊本の焼酎です、この頃から焼酎を毎朝少しずつ頂くということを誓っている、熊本は焼酎の名産地ですから、
四、五日まえにお参りなっつてから「熊本のありとあらゆるよい銘酒と云われる焼酎をお三宝にお供え40度35度、今焼酎はだいたい25度ですね、だから、そういう例えば先日頂いておった御酒の日本酒の15度16度ぐらいの度数のものでなくて30度も40度もあろうかと思う、それこそ、滾(たぎ)るような心の喜びとでも申しましょうか、滾るような喜びの信心が出来るところから、どういう難関もありがたい、もったいないで一気に通り抜けることが出来るのです。だから私どもはありがたいを目指さなければならない。
せつかく頂いている信心を線が緩んでおったり、垂れたりしておりますから、せっかくいただいておった御信心までも緩めてしまうといったことになってないでしょうか。
そういう時にもし何かがあった時におかげを頂く元、徳を受ける元でありましてもそれによって挫折するようなことになるとも限らない。
私どもは絶えず、ありがたいというものを如何にすればありがとうなれるか、本当に「実意丁寧神信心」、焼酎の信心というたらあまり酔い過ぎてもいかんですね。
しかし信心でいう「ありがたき、もったいなき、」は限りがない。ああゆう風になってる時は恥ずかしさもなければ、可笑しさもない、もうそれこそね人が何と云うおうが暑い寒いを感じん、というようなものが「ありがたい、もったいない」にはあるわけである。 どんなに寒かろうかと云うような時でもぽっぽっと汗にでることある、ありがたくてというようなおかげを頂かせてもらう、私共の信心が緩んだりいたしておりますと、せっかく頂いているものが気が抜けておる水同様になっておるようでは、おかげになりません。 本当に私どもがどんなにか実なかろうかという時であっても、それを実無かろうとも感じん済むような一つおかげを頂くために、いよいよありがたいものを養うていける、ありがたいものを頂けれる信心の工夫がなされなければならない。
そこから始めて目にも見えない姿にもないけれども、なるほど、神様に一心にお縋りしとればこのようにも心丈夫なものかという安心と喜びが頂けける信心、「頼りなきものを頼りとする故にこの頼りなき不安なるかも」私どもが不安焦燥を感じる時イライラを感ずる時、本当に神様を頂いてないなということを先ず悟らしてもらう。
そんならその神様をと直ぐに信ぜられるはずはないのですけど実意丁寧神信心をさしてもらってるうちに、そこから何とも言い知れぬありがたい、もったいない働きがそういうおかげが心の中に感じれれる。
そこから光昭先生でないけれども、右と願って左となる、その反対の事になる事の中に神様の一分一厘間違いのない働きとそれを分からしてもらうて、お礼が云えれる心の状態を頂いていくという事が信心だと思うのです。
皆さんがいつも持っておる信心、ハンドバックがいつも紫であることを確かめて、それが出ないならば、それはこの頃少し緩んでおると受け取らしてもろうて一修行さしてもらわないといけん、いよいよ実意丁寧神信心をさせてもらわなければならない。
いよいよ親の心に添う、親孝行の心を持って信心の根本姿勢はここだと先日頂いたんですけれども、親を思う切実心がかげておりはしないか、と思うとなるほど欠ける欠けてる間違ごうてるというところが沢山出てまいります、そこから正真正銘の自分を見究めることが出来る・・・・・?
不平不足のない生き方、ゆわゆる、過分のおかげ、分に過ぎたおかげ、自分というものが分かれば分かるほど神様は信心も出来んのにおかげを下さってというおかげが分かる、そこからありがたいものが湧いてくる、そのありがたいものからいよいよ間違いのない神様を頂かせてもらう安心の生活が出来るおかげ、私どもはまず頼りにしているものの、頼りにならないものを頼りにしているようなところを先ずは改めていかなければならないのであります。 終
入 ひろさき